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執筆者の写真荘魯迅

再び「風蕭々」を!



 紀元前二二七年、冬。燕の国境を流れる易水のほとりに、白い喪服をまとった一行が現れた。名だたる刺客の荊軻を見送る太子丹と、その友人たちである。

 荊軻は低い声で「風蕭々」をうたったが、一行は悲しみに耐えきれず涙を流した。次いで荊軻は、調べを高めて再びうたう。すると、一行の心には激しい怒りがこみ上げて、怒髪冠をついたのだ。

 荊軻は後に始皇帝となる秦王政の刺殺に赴き、帰らぬ者となった。

 巨大な帝国に身ひとつで立ち向かう「壮士」の姿は、今も人々の想像をかきたててやまない。




以上は、衆知の「荊軻刺秦(けいかししん)」の史話です。文は拙著『声に出してよむ漢詩の名作50』(平凡社新書)第五章から取りました。執筆した時は字数に縛られ、思いを述べきれませんでしたので、ここでもう少しこの歌に関して書き足したい。感心があったら、ぜひお読みいただきたいと思います。


司馬遷の『史記 刺客列伝』には、次の記述があります。できるだけ原意のまま、口語訳してみました。


「(一行は)易水のほとりに至り、旅立ちの儀式を済ませてから、(親友)高漸離は築(という楽器)で送別の調べを奏でた。それに和し、荊軻は『変徴』で歌う。見送りの一行はみな、悲しみに打たれ涙を流した。荊軻は今度、一歩足を踏み出し激情に任せて『羽』の調べで歌い上げる。すると、皆は目をむき出し髪で冠を突き上げるほど怒ったのだ。こうして荊軻は車に乗って出発し、一度も顧みようとしなかった……


そもそも「刺客列伝」を元に、わたくしが上の拙文を書いたので、話の流れには大差がありません。ここで改めて特筆したいのは、「変徴」と「羽」とは何かということです。


中国の古楽には、「五音音階」というものがあった。「五音」とは、陰陽五行の思想に則して作り出された宮、商、角、徴、羽といった五つの音階を言う。わかりやすく言えば、それはおおよそ現代音楽のC、D、E、G、Aに相当する。


  宮、商、角、徴、羽=C、D、E、G、A


さて荊軻が一回目に歌ったのは「変徴」の調。「変」とは ♯ か ♭ にあたり、「徴」がGだからすなわち ♯G か ♭G になるだろう。

この時に聴いた人たちが「悲しみに打たれ涙を流した」というゆえ、「変徴」で歌われた「風蕭々」は比較的に低くて悲しかったと推定できる。


しかし歌ったのは短剣一本、身ひとつで百万の大軍を率いる秦王に立ち向かおうとした荊軻。とっくに己の死を覚悟した壮士の永別には涙だけでは惨め、逆に衝天の怒りと勇気こそふさわしいものではないか。彼は調べを高め「羽」、つまりAに転調して歌い直す。その結果、人々の胸には秦王の暴挙に対する激しい怒りがこみ上げ、怒髪冠をついたのだ。


では司馬遷が書かれた「変徴」とは、いったい♭G、それとも♯Gを指すのだろうか?

あくまでも個人的な推理であるが、わたくしは♭Gの方を採りたい。なぜなら、♯Gとした場合、それがAに近過ぎて、劇的な転調の効果が引き起こせないと考えたからだ。


この解釈に基づいて、わたくしは「風蕭々」の曲中に短三度の転調と設けた。♭GからAへとではなく、AmからCmに転調したのはただ自分の音域に合わせたためだけである。


今回のバージョンでは、一番歌は比較的に低いAマイナーのキーで歌い始め、二番歌はわたくしなりに力強くCマイナーで歌い上げたのである。


歌の説明として、この文章は長くてしかもややこしい。また見方によっては、「えっ? 荘魯迅の作曲が理屈っぽいじゃん?」と思われる方もいっらしゃるかもしれません。


でもわたくしが思うに、古人の詩を真剣に現代の音楽で表現するなら、まずはその詩が吟じられた情景を審らかに把握しなければなりません。そして詩人の心の声に耳を傾け、その苦楽を追体験しつつ旋律を書き和音やリズムを構築してゆく。曲ができていざステージに立てば、その瞬間には我を忘れ、詩人の魂に没入しきって歌ってこそ、初めて心の感銘を喚び起こすことができるのではないでしょうか。


荊軻の刺殺は失敗に終わった。しかし「風蕭々」は、孤立無援であってもなお信念に従い、暴政に反抗する人々を絶えずに励ましてきたのである。

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