わすれなぐさ漫談
荘 魯迅
停電の夜。
蝋燭のゆらめく明かりのもとで、少年は読書に耽っていた。どれほど人の手に触れられてきたかはわからないが、ぼろぼろになった本である。
ぼろぼろがゆえに、表紙もなくなり著者名も不明。そのうえ、どこの国の本であったかも知る由がない。
それでも少年にとって、これは生まれて初めて手にした異国の『詩集』なのだ。
十一歳になったばかりの少年。この『詩集』はわかりにくく、少し戸惑っている。これまで誦じてきた「床前(しょうぜん)明月の光、疑(うたが)うらくは是これ地上の霜かと……」などとは、まったく異なった世界のことを詠んでいるのではないか……。
でも書物という書物が世の中から姿を消された今、少年は「やめよう」という贅沢をかたくなに拒んだ。ようやく手に入れたものなら面白いか否かはどうでもよく、最後まで読むことこそ正道なのだ。
蝋燭は涙をこぼしつづけ、夜は更けゆく。
あるページから突如、これまで想像だにし得なかった言葉が躍り出て、少年の心を激しく揺さぶった。
勿忘我(wu wang wo)!
私を忘れないで、という意味だろうか?
この言いようのないぬくもりと哀愁、この響きの切なさは、いったいなんなのだ!
しかもそれはなんと、ある植物の名であった。
「この世にはこんな言葉があるのか!? この世にはこう名づけられた草花があるのか!?」
少年の目は本から離れ、しばらく窓外の真っ暗闇を眺めた。
十年前に父さんはぼくをおいて行き、それから間もなく母さんもだ。今やそれぞれどこにいるかもわからないし、いったいぼくの存在を覚えているかどうか……いや、覚えているわけがない。でなかったらどうして会いに来ないのだ、どうして? そう、生みの親さえもぼくを覚えていないのに、この『詩集』は「勿忘我」という小さな花を歌っている。忘れない、忘れられてしまう。どうして? どうしてぼくが……
ネネー(「祖母」の意)の元で愛情たっぷりに育てられてきてはいたものの、少年の心には何かが欠けていた。それが何かは、少年はまだわからなかった。
その『詩集』には、イラストも写真もない。「勿忘我」が切なく歌われていても、その姿はわからないまま。それでも少年の心には、なぜか名づけようのない淡い憧れが芽吹きつつあった。
いつかは「勿忘我」に逢いたい!
しかしその「いつか」が半世紀後になるとは、少年はその時点では思ってもみなかった。前触れは少々長過ぎたようです。
わざわざ明かさずともお分かりいただけるかと思いますが、「少年」とはわたくし、荘魯迅のことです。
成長につれ、わたくしはやがて知ることになる。 父も母もわたくしを忘れたわけではなく、熾烈な政治闘争に巻き込まれ苦難のどん底に落とされたゆえに愛する故郷や家族を離れざるを得なかったことを!
それから半世紀の光陰が流れ去った。わたくしはとうとう、かの「勿忘我」を一度もお目にかかることがなかった。上海という「魔都」にはありとあらゆる「物」に溢れる反面、「勿忘我」だけはなぜかどこにも見当たらなかった。
一九八八年に来日した後、わたくしはどこかで「忘れな草」という歌を聴きました。一瞬、それはもしかして「勿忘我」ではないかとは思ったものの、夢を追いつづけることに没入したわたくしは両者の関連について追究したりしませんでした。こうして「勿忘我〜私を忘れないで」が、わたくしの脳裏から忘れ去られようとしたのである。
それが二〇二一年になると、様子が一変する。わたくしは六十五歳という人生の節目を迎えながら、皆様と同様にコロナ禍に苦しめられていた。しかし嘆いてばかりいても、心の安らぎは訪れて来ない。どうにか自分の窮境に突破口を見つけるべく、わたくしは長年にわたり住みつづけた久が原から離れ、八王子の北野台に悲願のBRICK HOUSE を建てました。小さなライブも講義もできるHOUSE を。
思いがけずに、それが「勿忘我」との出逢いを果たすきっかけにもなったのだ。「HOUSE の前方には花壇が設置可能だ」とわかった瞬間、体に電撃が走り記憶の彼方へ消えかけたあの憧れが甦った。
二〇二一年のわたくしが置かれた状況を顧みてみよう。来日して三十四年目、「我愛長江 荘魯迅友
の会」が成立二十五年目になる。地盤が固まり皆様との絆が深まったのはまことに素晴らしい。一方、歳月が無常にめぐりゆく中で、わたくしはどれほど多くのいとしい友人、先輩、理解者、支持者を亡くしてしまったことか。中には病で、ひとり忘却の彼岸へ渡られた方もいた。
また稀な例ではあるが、コロナ禍がもたらす世の分断と隔絶に惑わされ、信念を見失った末に決別して去った者もいたのです。気がついたら、わたくしはもう深い喪失感と離別忘却の苦に打ちひしがれていました。
そんな時に、あの電光石火の如き一念!
花壇ができるのだと? なら何よりも先に「勿忘我」を植えよう。
半世紀前、わたくしは花の姿を見ずに、ただその名に惹かれてひそかに憧れを抱いた。半世紀後、わたくしは今こそ自らの手で花を植え、分断が深まる一方のこの世に「勿忘我」の心を広めたいと決意したのである。
以上は、わたくしの小さな「勿忘我」物語です。
せっかく花を植え、その心を広めたいというなら、その名の起源や東洋における受容などに関しても探究してみたい。
日本では今、「忘れな草」と記すのが一般的である。読み方は変わらぬが、「勿忘草」の方は少し奥床しく文学的な表現になるのでしょうか。
それに比べて、中国ではいつから始まったかはわからないもののひたすら「勿忘我」と書かれてきた。
両者を並べてみても確かに「草」と「我」という一字の差に過ぎないが、響きと意味合いにおいてはかなり違ってくる。「勿忘草」は植物そのものの存在に重きを置いて、「勿忘我」は植物に託された人間の思いを推し出している。
それは両民族の性格の違いによるものだよとたかを括るのは容た や易すいことであるが、原産地とされるヨーロッパではどんな名をつけられたかを知った上で結論を下した方がいいとわたくしは思った。
そこで書籍なりネットなり調べてみたが、早く出てきたのはやはり「forget-me-not」という英語の名。それを逆に日本語に訳そうとすれば、ためらうことなく「私を忘れないで」になる。さてこのラウンドでは、どちらかというと「勿忘我」の方に軍配が上がりそうだ。
いざ踏み出せば、こんなところでとどまるわけにはいかない。語源を尋ねようとしているうちに、わたくしは中世ドイツのある悲恋伝説にたどり着いた。
ある日、若き騎士ルドルフはいとしのベルタをドナウ川の岸辺に誘い、愛を告白しようとした。春の岸辺には、名もなき小さくて愛らしい青い花が陽射しに映える。
「かわいいわね」
恋人の瞳に湛える憧れに心をうたれ、ルドルフは花を摘み取ってベルタに捧げようと岸を降りゆく。しかし運命は無情なり。
彼は誤って川に滑り落ち、あっという間に激流に呑みこまれてしまう。最後の力を振り絞ったルドルフは花を岸に投げ、「Vergiss-meinnicht!」と叫んで沈みゆく。残されたベルタはこの愛を忘れまいと花を髪に飾り、ルドルフの最後の言葉を花の名にしたのである。
これぞ、「勿忘我」の真の出典ではないかとわたくしは身震いを覚えた。ルドルフが愛を告白する前に、命を落としてしまったことはあまりにも痛ましい。代わりにベルタが受け取ったのは、恋人の愛と命の結晶ともなる小さな花。
その花はVergiss-mein-nicht、forget-me-not、勿忘我、勿忘草、忘れな草といった様々な名を以て、時空を超えて世界の人々に愛されてきた。
時には淡々たる哀愁を漂わせながら……。さて視点を言葉に戻そう。
ドイツ語のVergiss は英語のforget、meinはme、nicht はnot。つまり「私を忘れないで」という意味だ。その後は歳月の流れに伴い、ドイツ語の表現にはVergiss mich nicht やVergessen Sie mich nicht といった異なるバージョンが現れた。けど、意味はまったく変わらない。言ってみれば、このラウンドもどうやら「勿忘我」の勝ちだ。
ここに至って、日本の勿忘草と中国の勿忘我がいずれもドイツ語か英語からの訳名であることは言うまでもない。どちらの方がより早くできたかは、われわれにとってはあまり重要ではない。いつも申し上げていることですが、幕末までは日本が全般的に中国の文化を受け入れていた。しかし明治維新後は伝承の事情が真逆になり、今度は中国がほとんど一方的に日本の文明開化の成果を吸収しようとしてきたのだ。それが日常用語の領域にまで及び、現代中国語にはたくさんの単語が日本から「逆輸入」されたものである。
では「勿忘草と勿忘我という一字の違いはいったい何を意味するのか? あなたならどちらをより好むか?」と尋ねられたら、なんと答えればいいでしょう。
悩んだ末に、わたくしは自分の考えをこうまとめた。まずは、性格の違いという説を首しゅこ肯
うせねばならない。
それから「勿忘草」の訳語はどなたが作ったかにせよ、原意が「私を忘れないで」であることはその作者もお分かりのはず。それでも一歩下がり、「我」を抑えて「草」に換え、その言下には「我、草なり。されど忘わするる勿なかれ」の意がこめられたのではないかとわたくしは想像する。まことに控えめでありながらもかっこいい。
この想像が正しいなら、わたくしは躊ちゅうちょ躇せずに「勿忘草」の方が好きと答えるでしょう。
一方、世界は今、冷戦終結以来再び仁義なき血塗れな抗争に苦しめられている。遠からぬ空には、とてつもなく大きな火玉が飛び交い尊い命が無数に焼き消されてゆく。それを横目にせせら笑う冷酷な強権主義者は、金銭とパワーを振りかざしては人々の最低限の権利をも踏み躙ってしまう。命と同様に尊いはずの精神自由と言論自由は、偽りの主義主張の高圧のもとで粉々と砕け散ってきた。人類はどこへ向かう??
戦禍、コロナ禍、強権(狂犬)禍の渦中に巻きこまれたわれわれは果たしてどうやって明日を迎えるべきだろうか?
わたくしはかつて、多感な少年期を文化大革命の中で過ごした。想像を絶する恐怖と孤独を抱えながら、青春は押し潰されてしまいそうだった。それから半世紀が過ぎ懸命に立ち直ったつもりであったにもかかわらず、まさかのことで災禍は再び獰どうもう猛 な形相をして真っ向から襲いかかってきている。
すでに申し上げた通り、日常に使うならわたくしも「勿忘草」を選びたい。なぜなら「勿忘我」は我が強過ぎて、口に出すことすら恥ずかしいと思うからだ。しかしこの災禍からの猛襲に抗い揺れ動く世を生きぬくため、われわれが最も必要としているのは剣とペンよりも古典的でありながら不朽不滅なるもの。それはすなわち愛と友情、理解と信頼にほかならない。
「勿忘草」や「勿忘我」を超越したところに、われわれの合言葉はすでに光を放っているはず。それは
勿忘我 wu wang wo ~
私を忘れないで、
勿忘你 wu wang ni ~
そして私も決してあなたを忘れたりしない。
というものである。そう、私は今ほどあなたを必要としたことはない。あなたも私を必要としているように。
二〇二二年六月十五日発の第七十六号本紙に忘れな草のことに触れたら、ある会員の方から次のご要望を寄せられました。
「来春、忘れな草の花期に荘魯迅作詞作曲の忘れな草を聴きたい」と。そのうれしいご要望があって
こそ、過日の「荘魯迅LIVE Singforget-me-not」がBRICK HOUSEで行われました。
初披露した歌のタイトルは、暫定的ではあるがやはり「勿忘草」というのです。文末ながら、歌詞
を掲載させていただきます。上の拙文を、歌の裏付けとお読みいただければ幸甚です。もう少し調整
を加えますが、必ずいい歌に仕上げて行きたいと思います。
勿忘草
荘魯迅 作詞・作曲
初めて君と巡り逢えたのは
見知らぬ国の物語の中
まだ見ぬ君の姿に少年は
なぜか淡い憧れを
それは空に風も光もなく
河の流れも涸れ果てたまま
季節のめぐりを知らぬ少年は
春に思いを馳せた
勿忘草 勿忘草
ぬくもりを知らなかったのに
心は奪われてゆく
その日からギターと共に
君を探す旅に出た
悲しみや寂しさの果てに、
遥かな望みを抱えてく
勿忘草という名に少年は
一縷の光を見い出した
勿忘草 勿忘草
君さえいれば ひとりぼっちにはならない
君さえいれば 言えよう
forge-me not forget-you not
春 過ぎゆく 花 儚い
でも
勿忘草は僕たちの versprechen
とわに胸に咲かせよう
vergessen Sie mich nicht
vergessen Sie mich nicht
勿忘我 勿忘你
勿忘草は僕たちの約束
永遠に胸に咲かせよう
花壇が賑やかな季節を迎えました。横で列を成しているのが勿忘草です。
愛らしいでしょう。
開演前
愛するギターにも勿忘草を一本。
開演一曲目は「相思曲」です。
歌声で永遠に忘れられぬ物
語を伝える。
知音曰く「荘さんの勿忘草が
このスケールとは驚きまし
た」。激励のお言葉、ありがと
うございます。