親戚が送ってきたファイルだが、連日は忙しくて見る時間がなかった。今朝開けてみたら、読んでいるうちに怒りと悲しみが込み上げてきた。
執筆者は黄後楽(こうこうらく)、かつて中国民主同盟の主要創始者・黄炎培(こうえんばい)の孫である。
黄炎培は祖母・黄培英(こうばいえい)の従兄で、その職業教育家としての名なら中国では誰もが知っているはず。1945年、彼は延安で毛沢東と会談し、その政権をめぐる「周期率」の論説は史家たちに広く伝えられている。わたくしは拙著『上海 時空往来』(平凡社2010年発刊)第九章「上海英傑列伝」の中で、彼の生涯を簡単に紹介したので、よければお読みいただきたい。
若い時の黄炎培
しかし今更ながら、はっきり申しておこう。
職業教育を普及した黄炎培の業績は大いに賞賛すべきと思う反面、毛沢東の「闘争哲学」に違和感を抱きながらも毛に追従したその後半生に対して、従孫にあたるわたくしは失望を禁じ得ない。
黄炎培は1965年12月21日に逝去したが、間もなく歴史の歯車が狂い出す。文化大革命の初期、祖母が監禁や容赦ない闘争の日々に耐えながら、
「任之(じんし・黄炎培のあざな)爺さんが文革の直前に亡くなったことは、幸いと言わなければならないかもしれないね」
と呟いたのは、今なお記憶に新しい。
中国人は古来、「死」を「汚れ」と看做してきた。なのに祖母は、それを「幸い」と言っている。その寂しげな表情に、十歳になったばかりのわたくしは驚きを覚えずにはいられなかった。(下線の部分は、拙著『上海 時空往来』より)
ここに掲載する写真は、祖母が保存した黄炎培の揮毫で、祖母の手工芸を讃えた内容なのだ。
ところで黄炎培は、政権を手にした毛沢東が絶え間なく起こすさまざまな政治闘争から自らの身を守り、かろうじて命を全うした。にもかかわらず、三男であった黄万里(こうばんり)が1957年に毛沢東から名指しで批判され、右派のレッテルを貼られ強制労働に送られるのを目の当たりにしながらも何もできなかった。
万里は、中国有数の水文学・河川工学者であった。毛の逆鱗に触れたのは、彼は時の「天と闘い、地と闘い、人と闘い」という狂気じみたスローガンに反対し、毛沢東御執心の三門峡ダム、および後の三峡ダムの建設企画にも猛反対して引き下がろうとしなかったからだ。
文革後、名誉回復した黄万里
黄万里のことについて、わたくしは幼い時に祖母から断片的に聴き覚え、その学者たる硬骨に深い敬意を抱いてきた。十数年前になるか、拙講『中国現代史』の一環として、彼の生涯を台東文化会館の教室で熱く語ったことがある。
しかし炎培の死後、その一族を襲った不幸は黄後楽氏の記事を読んでようやく知ったものだ。
黄炎培一族(ちょうど真ん中ほどにいて、帽子をかぶったのは彼です)
人名がたくさん出て、皆さんにとっては覚えにくく申し訳ないと思うゆえ、詳細を略し構図的に見るだけにしよう。
妻・姚維鈞(よういきん)は文革の3年目、迫害に耐え切れず自殺。
五男・黄必信(こうひっしん)は教師であったが、兄・万里と同じく1957年に右派のレッテルを貼られ公職追放。更に文革が起こったばかりの1966年の夏、人格への侮辱と暴虐極まりない闘争に晒された末に自殺。
五男の妻・余啓運(よけいうん)も監禁され、殴る蹴るの暴行を受けた末に自殺。その末娘の黄可青(こうかせい)が14歳未満で失踪した二年目に。
黄必信一家。右側にいるのは後に失踪した可青ですが、真ん中の少年は後楽さん。写真は文革の3年前に撮られた。
余啓運がまだ幼い長女・未雨(みう)と長男・後楽に残したその遺書は
「必ず可青を探し出すように!」
と締め括られたのである。
子女への愛とその前途に横たわる危険に不安を抱えながらも自らの命を絶つ、その喪失感と絶望、そして悲憤は、もはやわたくしの筆墨では表し尽くせない。かの文革では黄必信、余啓運と同様に想像を絶する迫害の果てに死を選ばざるを得なかった罪なき知識人が数え切れないほどいた。それでも現に文革の再来を歓ぶ輩がいて、しかもその群れが膨張しつつある。いったい、再び中国をどんな煉獄に突き落とそうとしているのだ⁈
話題に戻ろう。
黄炎培は祖母の従兄なので、お会いしたことはないものの後楽さんはわたくしの従兄弟にあたるわけである。
その記事のタイトルは「妹よいずこに?」
すでに周知された事件だが、ある女性は徐州へと売り飛ばされ、八人もの子を生まされた上で鉄の鎖に繋がれている。世に言う「徐子八」である。その一件を切り口としつつ、記事は静かに黄氏一族の辛酸たる歴史に触れてゆく。
詳細の翻訳は避けたいが、この言葉には耳を傾けよ。
「失踪55年の妹がもし今も健在なら、我々が懸命に探してきたことがどうにか伝わり家に帰ってきて欲しい。もしもすでに他界したとしたら、せめてその最後の遭遇を知りたい……」
淡々たる言葉で綴られているが、わたくしには悲痛なる絶叫に聴こえてならない。ただいまこの拙文を書きながら、北朝鮮に拉致された日本の少年男女の姿が脳裏に浮かぶ。拉致と失踪の背後に蠢く勢力はまったく異なるものの、残された家族の悲しみに変わりはない。拉致被害者のご家族の中には高齢ゆえ、憾みを胸にしまったまま世を去った方も多い。それでも彼らは生前、全身全霊でマスコミに訴え各国の元首に訴え世界に訴えながら自らの命の炎が消えんまで救出に尽力することができた。それに比べて、後楽さんの訴えはSNSの力を借りるほかなく、その声の届く範囲は非常に限られている。こう考えつつ、胸が張り裂けるような痛みを覚えずにはいられない。
そう、徐州に起こった一件に対して、中国では前例に見ないほど民意が大きく動いている。まもなく最高層の誰かが後光を射しながら、派手に見得を切って登場し、霹靂たる怒りの鉄拳を下して徐州の蝿どもを一掃する。女性の頸にかけられた鉄の鎖はいともたやすく断ち切られるであろう。こうして非人間的で悲惨な事件が政治に利用され、やがて万歳万歳万々歳の中で一件落着。一人の女性が救われることは喜ぶべきだろうが、失踪や人身売買およびその他の社会問題は少しも変わらない。千人、万人もの黄可青の行方はいつ突き止められるのか、その社会正義はいつ果たされるのだろうか?
したがってわたくしは問いたい。
問題の根源は某州、某地方だけにあるのか。
もしそうでなかったら、いったいどこにあるのだろうかと。
徐子八を救え!
黄可青を救え!
皆さんにお願いしたい。
荘魯迅のBlogにおとずれる方は僅少であるがゆえに、今こそあなたのご支援と拡散を必要としています。
徐州市の八人の子の母は、はだしで鎖に繋がれ、世界から見捨てられた女性。
他にも、人身売買などにより、何十年にわたって隠された女性たちは、どれほどいるでしょうか。
当局は徐子八の事件を認めて売買に関わった人間を逮捕。しかし、逮捕で幕引きをしようという、蜥蜴の尻尾を切っただけの措置かもしれません。
珍しく微博のリサーチが許されたとか。信じ難いことに、この件の関連で30億近いアクセスがあったと聞きます。つまり、もはや世界中が知っているということでしょう。
NYのタイムズスクエアでもロンドンでもアピールがあったそうです。
自分が母であり姉妹や子を持つ女性として、我が身に引き換えて痛みと憤りを感じます。
ひととして生まれた者には必ず母がいます。男性も同じだと思いますが。