「武士は食わねど高楊枝」と「宵越しの銭は持たぬ」――『上海人 in 東京』という歌の奥に

先日、自作のアーバン・コミックロック『上海人 in 東京』をWeChatに載せた。
ありがたいことに、いろいろな反応をいただいた。
面白い。
笑ったよ。
楽しい。
おおむねそんな声である。
それはそれで作者としてはうれしい。そもそもコミックロックなのだから、聴いて眉間に皺を寄せられては困る。
ただ、一つ意外なことがあった(そう言いながらも、完全に想定外でもなさそう)
歌詞の中に、わたくしがひそかに埋めこんだ二つの言葉に気づいた人は、ほんのわずかだったのである。
一つは、
「武士は食わねど高楊枝」

もう一つは、
「宵越しの銭は持たぬ」
前者は中国人とて、長く日本に暮らしていれば何となく腑に落ちるーー
たとえ貧しくとも、腹を空かせているところを人には見せない。
痩せ我慢と言えば痩せ我慢。しかしそこには体面があり、矜持があり、さらには一種の美学さえあるのだ。
上海人のわたくしにも、これは比較的わかりやすかった。
ところが、二つ目には驚かされずにはいられない。
「宵越しの銭は持たぬ」。
初めてこの言葉を知った時、わたくしはしばし考えた。
――この惑星の人間は、そこまでやるか。
中国の年長者が若者に人生を教えるなら、おそらく正反対のことを言う。
蓄えなさい。
明日のことを考えなさい。
いざという時のために備えなさい。
今日稼いだ金は今日使ってしまえ! と少しでもそのような素振りを見せたら、もう大人たちは安心して眠れまい。場合によっては、それを潔さと見るどころか、身を持ち崩す者の生き方とさえ見られるだろう。
むろん、「宵越しの銭は持たぬ」は日本人一般の生活哲学に非らず、江戸っ子の気風を象徴する言葉なのだ。それをもって、今日の日本社会を説明するつもりもない。
それでも、この言葉が一つの「粋」として語り継がれてきたこと自体、わたくしには面白かった。
金を持つことより、金に縛られぬこと。
蓄えることより、時には潔く散じ尽くすこと。
その背後には、中国で育ったわたくしには馴染みの薄かった、もう一つの人生観がある。
思い返せば、わたくしがこの歌を思いつくよりさらに前、1990年代の初頃だったのか、中野孝次氏の『清貧の思想』が世に出て大きな反響を呼んだ。
清貧
この二文字も、考えてみれば不思議な言葉である。
否、陶淵明の詩にもよく見られる表現ではないか?
確かにそうだが、しかし現代を生きながらもそれを「思想」にまで仕立て上げようとしたのはやはり日本的である。
貧しさそのものを讃えるのではない。
物を持たぬことを目的とするのでもない。
人間が物を所有するのか。
それとも、いつの間にか物欲の方が人間を所有するのか。
おそらく問題は、そのあたりにある。
もっとも、わたくしは「無欲」を無条件に尊ぶ者でもない。
欲がなければ、人は前へ進まない。
よりよい暮らしを求める。
より高いところを目指す。
昨日できなかったことを、今日は成し遂げようとする。
そういう進取の精神は、人間にも社会にも必要なのだ。
90年代の中国社会の猛烈な活力を見ていると、ときに眩しいほどであった。そして、その精神はおそらく、わたくし自身の中にもかなりしぶとく棲みついている。
ただし、欲望には終着駅がない。
一つを得れば、もう一つが欲しくなる。
一段上れば、さらに上が見える。
進取が競争となり、競争が際限を失えば、人を傷つけ、自然を傷つけ、ついには自分自身をも傷つけることになる。
ならば、ときには高楊枝をくわえてみるのも悪くない。
宵越しの銭まで全部使ってしまう勇気は、わたくしにはない。
そこはやはり、われは上海出身の男なのだあ。


日本に暮らして長くなるにつれ、わたくしはこの国を複眼で見るようになった。
日本を礼賛するためではない。
中国を否定するためでもない。
日本から中国を見る。
中国から日本を見る。
そして、ときにはそのどちらからも少し離れて、両方を見る。
もっとも、これはわたくしが好んで身につけた高尚な「複眼」ばかりとも言えない。日本にいれば中国人と見られ、中国へ行けば日本人と見られる。長いこと二つの国を往来していると、人間は否応なく、少々面倒な目を二つ持たされるらしい。
一つの目で見れば、物事は案外すっきりする。
複眼で見れば、少々厄介になる。
しかし、その厄介さを引き受けなければ、見えてこないものもあるのだ。
それに「同文同種」という便利な言葉があった。
便利であるだけに、ときどき用心した方がよいぞ。
同じ漢字を使っていても、同じようには生きていない。
同じ古典を読み、同じ言葉を知っていても、その言葉の背後に流れる歳月は同じではない。
それを知らなければ、ただ「似てるじゃん」と思いこむといざこざが至るところから生じてくる。
したがってあえて言おうーーー
厄介だからこそ面白い。
ときには「面白い」などを超えて可笑しくもなる。
その可笑しさの中にこそ、互いを知る入口が潜んでいると思うのだ。

さて『上海人 in 東京』は、そんな大層なことを説くために作った歌ではない。
まず、自分を笑う。
東京で暮らす上海人を笑い、
上海人の目に映った東京を笑い、
文革の嵐をくぐりぬけ、自由を人生の最高義と掲げながらもなお容易に自由になれぬ自分をも笑っている。

ゆえにこれは、やはりアーバン・コミックロックでよい。
ただ、もし聴き終えたあと、
「武士は食わねど高楊枝」
「宵越しの銭は持たぬ」
この二つの言葉が、ほんの少し耳の奥に残ったなら――
作者としては、それもまたうれしい。
笑って作った歌には、
笑いだけでは済まぬものが、
少しくらい潜んでいてもよかろう。
――莊魯迅
2026.9.21 於 東京





「上海人in東京」をお聴きくださるなら、YouTubeへ↓
https://youtu.be/oS33SKI_D0k